鎌倉初期の建久9年(1198年)、源頼朝の命を受け、
遠江国相良(とうとうみのくにさがら・現在の静岡県)より人吉荘の地頭として着任した相良長頼が、
人吉城の城主となり、以後、相良氏は、代々700年にわたり在城しました。
 
人吉城は、球磨川と胸川を堀とし、また、山の斜面や崖を城壁とし、自然を巧みに利用して築かれています。
写真は、幕末に造られた、最上部の平らな石が突き出した、「はね出し」という工法を応用した
「武者返し」と呼ばれている石垣です。
この工法は、函館の五稜郭や江戸湾台場などで見られるヨーロッパ式の石垣です
 
人吉城跡は、これから桜の見頃を迎えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人吉・球磨地方には、鎌倉時代の創建と伝えられる、
多くの社寺建築や仏像などが現存しています。
 
 一番札所から三十三札所までの観音堂には、三十五の観音様が祀られ、
春と秋の彼岸の時期に開催される「相良三十三観音めぐり」では、
全ての観音堂が一斉に開帳されます。
 
 それぞれのお堂では、地元の方々によるお茶やお菓子によるお接待も
行われています。
 
写真は、球磨郡あさぎり町岡原の二十九番札所「宮原観音(みやはらかんのん)」です。
※当社の焼酎蔵からの距離は、約7km。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
写真は、球磨郡多良木町の「百太郎溝(ひゃくたろうみぞ)」です。
 
百太郎溝は、球磨川の水を取り入れ「多良木町」、当社焼酎蔵のある「あさぎり町」を経て、
「錦町」までの約18kmを流れています。(かんがい面積は、約1500ha)
 
この溝の工事は、鎌倉時代に始まり、五期にわたって行われ、藩からの援助や指導もなく、
子供からお年寄りまでの農民総出の手掘りによってつくられてきました。
 
洪水により堰が何度も流され、「百太郎」という人物を人柱として、やっと大堰の基礎が
できたといわれる逸話もある程の難工事でしたが、今から約310年前の宝永7年(1710年)
に完成したといわれています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
JR肥薩線の人吉駅から吉松駅までは、高低差430mの「山線」と呼ばれる区間です。
 
人吉駅を出発し、連続した勾配を登ってきた蒸気機関車は、
大畑駅(おこばえき)で停車し、給水をする必要がありました。
一休みした後、列車は、スイッチバックとループ線を通り、さらに険しい矢岳駅への勾配に挑んでいきました。
 
写真は、大畑駅。石造りの丸い建造物は、蒸気機関車専用の給水塔跡です。
大畑駅:開業 1909年(明治42年)
※当社 焼酎蔵から大畑駅までの距離は、約18kmです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
九州山脈の「白髪岳(1,417m)」の花崗岩を歳月をかけて
くぐり抜けた良質の水が湧出する井戸が多い所・・・それが、「堀の角(ほりのすみ)」です。
 
 
 
 
 
明治8年、この地で、初代 松岡文助の焼酎づくりが始まりました。
やがて、文助の焼酎は「松岡の焼酎」と呼ばれ人気を集めるようになりました。
 
 時は流れ、「松岡の焼酎」は、姓の「松」と湧く「泉」から、
松の泉」の銘柄になり、多くの人々に愛され親しまれ、今日に至っています。
  
 
※写真は、当社焼酎蔵の中庭にある泉水です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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